「自然に還る」を超えるべき人生の最期

墓は、造らない 新しい「臨終の作法」

墓は、造らない 新しい「臨終の作法」

  • 作者: 島田裕巳
  • 出版社/メーカー: 大和書房
  • 発売日: 2011/02/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
仏教界と葬儀業界に衝撃を与えた島田裕巳氏の「葬式は、いらない」。
喧々諤々の批判もあったようだが、現代日本人の心象にマッチする部分が大きかったのだろう、いまでは「家族葬」を超えて「個人葬」なるものまで定着しつつある。
「カネをかけてまでなんで葬式?」「残される家族に迷惑はかけられない」といった、「節約志向」というのか、「エコ」というのか、そういった感覚で葬儀がみられるようになっているのが現状だ。
昨年同氏はさらに理論を展開させ、「墓は、造らない」というところまで行ってしまった。
確かに葬式の後は墓の問題が出てくるのは当然の成り行きだ。
背景にあるのは「檀家制度」という、江戸時代のキリシタン迫害を背景とした仏教ベースの偏屈な行政制度だ。
これが現代社会に全く合わなくなったために、いわゆる「無縁社会」という大きな問題を引き起こす結果となった。
この問題をさらに助長したのが高度経済成長に起因する葬儀の形骸化だろう。
同氏の批判もこれをベースとして為されていることは明白だ。
 
同書には「葬式宗教」と化した現代仏教界に対する批判が幾重にも出てくる。
関東と関西で遺骨の取り扱い方が違うということは初めて知った。
「遺体処理」という本来的な埋葬の意義が、「世間体」という概念によって巧妙に置き換えられているのがいろいろな観点から見えてくる。
ここに卑屈なまでの日本的社会主義制度が象徴されているように思われてならない。 
 
一方で同氏も指摘しているように、「人間は、仲間が死ぬと、その以外を放ってはおかない」存在であることは確かだ。
そこには悠久なる歴史を通じて「死」という宿命的な課題に対する人類の苦悩が存在している。
だから「死とは何か?」、もっと言えば「人生とは何か?」という根本問題が解決しない限り、この一連の問題も解決の道はないのである。
 
同書の終わりの方で「千の風になって」の話が出てくる。
この歌を聞いたとき、時代は本当に変化しつつあるなという直感を得たことを記憶している。
日本人である我々はこの歌を自然に受け入れている。
そこには決して唯物論では納得できない世界観が我々の内に潜んでいるからなのである。 


ところが現代社会は唯物論を思想的インフラとして構築されているがゆえに、この問題に対する思索さえも失ってしまっている状況が続いてきた。
しかし日本を始めとする先進諸国だけでなく、新興国・開発途上国においても、今やこの人生の問題は無視できない問題となってしまった。
ただその問題に解答を与えるはずの宗教界が進化論を中心とする科学界の前にその権威を完全に失ってしまっているがゆえに、問題の解決は容易でないのである。
 
結局島田氏の結論は、墓を造らない「自然葬」という方向に向かう。
しかしそれは日本人の琴線に触れる感傷論を満足させることはあっても、根本的な疑問に対する回答は与えてくれないのである。
「葬式」と「墓」。
これを外面的にのみ鳥瞰する我々の社会概念は既に限界を呈していると理解すべきである。
ここで我々は間違いなく「人生を生きる目的」という課題を避けることができなくなっている。
宗教界が一致団結してこの疑問を解決する新たな理念を提示できない限り、人類の悲劇はその滅亡まで続いていくだろう。
同書の最後に解決のヒントとなる言葉があった。
島田氏は「墓は作らず、自然に還れ」と主張している。
ここが人類の限界点であり、これを超えていくことが本然の人間性を復帰する原点となると考える。
つまり「自然に還れ」のではなく「神に還れ」というべきなのである。
親が子を生み子が親になりまた子を生みだしてきた歴史。
人類だけでなく、全ての生きとし生けるものが続けている生の営み。
この原点に「還る」ことが、「葬式」と「墓」の問題を根本的に究明する鍵となる。
それを世界次元で目に見える形で我々に提示しているのがいわゆる「祝福結婚」であり「聖和式」だといえる。
 
 

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